e5star BLOG

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1990年代、ケリースレーター等の影響により、サーフボードはより幅が狭く、より薄く反応の良い板になっていきました。
その弊害で初心者がテイクオフしにくい浮力のないボードがポピュラーになり、このようなサーフボードでサーフィンを始めるのは暗黒の時代だったと思います。
その反面、1991年にOn Safari to StayというVTRがリリースされ、ジョエル・チューダー(15)、ウイングナットによる、モダンでクラシカルなロングボードの復活がありました。
(1980年代後半にウェーブウォリアーズでハービーフレッチャーなどがモダンロングボードを披露したがマニアック層にしかウケなかった)
日本でも1995年にロングボード専門誌「NALU」が創刊。
石巻にも早くからロングボードをやっている先輩がいて、その先輩から1993年頃に「On Safari to Stay」のVTRを観せられロングボードに興味をもち、翌年の1994年にウインド・サーフィンをやっている同級生が使っていないロングボードを持っていて、そのボードをちょくちょく借りて乗っていました。
(ちなみに初めてロングボードに乗ったのは1982年千葉で東京の先輩が所有する日本製60’sマリブのクラッシク・シングルフィンでした)
2000年代前半からトム・カレン、ジョエル・チューダーの影響でトランジション・ボードも見直され、現在に至るまでいろいろなサーフボードを選択できる時代になりました。

1990年以降、石巻のサーフショップはジェフリーズ、ドープサーフ、カールスバッド、フリーサイドサーフ、シークレットがあり、2011年3月東日本大震災にて全店舗が被災し、ドープサーフを除く4店舗が被災した店舗を再建し今も営業しております。

ウエットスーツは1990年代前半によく伸びるフリスト・ジャージが発売。セミドライは簡易防水ジッパーのコイルファスナーが主流でしたがとても硬く運動性が悪かったので、柔らかいノーマルファスナーを使って防水性を保てないかと考え出された技術が現在でもポピュラーなバリアです。実はこの技術は石巻のウエット工場から開発された技術でしたが、その後USAオニールに特許を取られましたw。1990年代中盤にSCS裏スキンが発売され、2000年代前半までよく使われた素材だったと記憶しております。また1990年代中盤に首から着るノンジップ・スーツが発売され、ネックの部分にその当時よく伸びたフリスト・ジャージが使われましたが、まだ生地の伸びが足りず着脱が困難だったため主流にはなりませんでした。(私はこの首から着るノンジップの改良版、外付けネックカバーを装着するカバータイプのノンジップを1995年に開発しましたが会社の企画会議でボツになりましたw。今考えると特許を取っておけばよかったな?と思いますw。)
2000年代になるとジョエル・チューダーの影響でクラシカルな真っ黒のスキンスーツが流行り出し、今でもスキンスーツの文化が残っております。2004年以降、カバータイプのノンジップが出始め、今ではカバータイプのノンジップが主流になりました。近年、生地の伸縮性が向上し首から着るノンジップ・スーツ・ネックエントリーも再構築され、ラインナップの1つでもあります。
現在はプリントジャージ、左右非対称カラー、伸縮性が悪くなる直線的カッティング、昔流行ったフロントジップなどなど・・・。生地の性能は進化しておりますが、機能的な所は円熟期を迎え、見た目のデザインの競い合いで何でもありの時代ですw。

1990年、地元石巻に帰り、実家脇にあった空き家をリフォーム。とりあえず結婚したものの無職だったので仕事を探しました。昔から一緒にサーフィンをしていた先輩から呑みに誘われ仕事の事を相談すると「俺らがやってる仕事を紹介する?」と言われ、内容を聞いてみるとウエットスーツ工場の仕事でした。地元に帰ってきてサーフィンをやりたかったので「サーフィンするのにウエットスーツは必要だな!」と安易な気持ちで面接へ。即採用され次の日から仕事をしました。出勤初日、定時は17時だったのですが初日から3時間残業・・・。3ヶ月後には5時間残業の毎日。半年後には7時間残業になっていき、自分の人生の中でかなり長い時間を費やしました。石巻のウエットスーツ工場は日本一大きな工場でいろいろな製品を作っており、自分だけで数千着、関わったプロダクトでは数万着以上のウエットスーツを作りました。最初は現場の下積みから始まり、ウエットスーツ作製に関わる工程すべて、企画開発、コンセプト、マーケティング、デザイン、生地や製品のテスト、原価計算、海外や外注への仕様書作製、海外工場視察・指導、海外でのカタログ撮影などなど、おかげさまで普通のウエットスーツ工場では経験できない事をいろいろと経験させて頂いたので今があると思っています。
退職後、スケートボードのアパレル会社に就職し、横乗り業界からは離れませんでした。
その頃に知り合いのウエットスーツ・メーカーのテストライダーもやっていましたが、テストライダーといっても本当に機能や性能をテストして明確に問題点と改善点を出して製品をより良い物にしていくと言う地味なライダーですw。知り合いのウエットスーツ・メーカーがオリジナルをやめる事になり、自分でお金を出してまで欲しいウエットスーツが市場に無かったので2005年12月、e5starウエットスーツを立ち上げました。アンチな性格なのでどうせ作るなら他社がやっていないウエットを作ろう!と思い、「エントリーモデルのような安い素材は使わず最高級の素材のみ使用」「時間がかかろうと作製方法をこだわる」「中間マージンを省き自分もいちユーザーとしてこの価値に払える金額」「売れ筋のファッショナブルなデザイン重視のカッティングをせず、機能重視の大型パーツカッティングで立体裁断」「サーフィン専用で不変的な1デザイン」など、他社がやっている事の反対の事をやっていたので理解していただくまで時間がかかりました。昨年2016年の12月で11年が経ちましたがコンセプトは変わらずブレないモノ作りをしております。

6年前の2011年3月、東日本大震災にて工場と自宅が被災し何も無くなった時に「このままウエットスーツ作りを辞めようかな?」っと思った時がありましたが、それまで買っていただいたお客様のご支援や励ましのお言葉を頂き何とかここまでやってこれました。

何故、ここまで長々と自分のプロフを書いたかと言うと、「e5starウエットスーツを作っている人はどんな人?」を知ってもらうためです。
どの時代にどんな(サブ)カルチャーを経験してきて、今あるウエットスーツはどんな考えで作っているか、自分のバックボーンを知って頂くのが必要だと思いました。
私はカリスマ性がある人間ではありません。この文章を読んでわかると思いますが文章力もありません。上手いこと言って販売する営業力もありません。
世界一、日本一のウエットスーツ・メーカーになる野望もありません。最先端のウエットスーツやファッショナブルなウエットスーツを販売するつもりもありません。

ただ、普通の人より少しだけ前にサーフィンと関わり、リアルタイムで進化していくサーフ・カルチャーを経験し、普通のウエット屋では経験出来ない知識と技術を持っているだけです。
e5starウエットスーツは「1分、1秒でも長く、快適に海に入っていられるウエットスーツ」を目指して創っており、使って良かったと言ってもらえるようなウエットスーツを作り続けたいと思っております。
1984年、サーフボードはトライフィンが定着し、4フィンが発売されましたが完成度が低く今のように定着はしませんでした。
ウエットスーツはよりデザイン性が高くなり、この頃から細かいパーツを使ったデザインが主流になり始めました。
この年にアップルコンピューターがマッキントッシュを発表。日本でも「これからは一家に一台コンピューターの時代が来る」とマスメディアの文言を信じて、コンピューターの専門学校に進学。いざコンピューターの専門学校に入ってみるとその当時はコンピューターと言うより電算機といった大きなマシンしかありませんでした。COBOL(プログラミング言語)やフローチャートをひたすら勉強する日々、今でもウエットスーツの開発をする時にフローチャートの考え方が生かされております。
高校3年間、サーフィンをやり尽くした感があり、刺激が足りなくなっていた時期にスケートボードメーカーのパウエル・ペラルタ社から「The Bones Brigade Video Show」というスケートボードのVTRが出て、日本では第3次スケートボード・ブームが巻き起こり、興味はサーフィンからスケートボードに移行していきました。
サーフショップのオーナーを説得し資金を出してもらいスケートボード・バンクを作製。海外の雑誌を参考に作りましたが高さがないのにアールがバーティカルなので殺人的で危険なバンクでしたw。後日、スケートボードのディストロビューターに聞いた所、東北初のバンクだったそうです。その数年後、各地のサーフショップでランページが作られましたが、知識が少なかった為、危険なバーティカル・ランページで怪我人が続出しました。波があればサーフィン、波がなければスケートボードの毎日。専門学校を卒業する前くらいにはサーフショップで店番のバイトをしていました。
1985年、サーフショップのオーナーが仙台に輸入雑貨店をオープンすることになり、好きで古着や輸入雑貨を独学で勉強していた事もあり、そのまま輸入雑貨店に就職。仙台に引越して新たな生活が始まり、1年後にはLAに買い付けに行き憧れだったアメリカの文化を体験させて頂きました。その当時、VANS(スケートシューズ)が東北では販売していなくて、VANS・USAに直接オーダーして販売もしました。当時、細かいカスタム・オーダーが出来る時代で生地をテディベアにしてソール上帯はチェックのプリントなど、世界で1つだけのVANSを作れた時代でした。
大好きなスケートボードの事が詳しくなり、その後スケートボードのディストロビューターに転職。企画書を書いて仙台駅前のデパート屋上に東北初のコーピング付きミニランプを作製。この頃からサーフィンは年に数回しかやらなくなってしまい、どっぷりスケートボードの毎日。
その後1990年、結婚して地元の石巻に帰るまでの5年間はサーフィンをあまりしない「サーフィン空白の5年間」になりました。
「サーフィン空白の5年間」の間に石巻ではマハロサーフショップがなくなり、FOCUSサーフショップや、Rocksサーフショップが誕生し、石巻メイド、オリジナルRocksサーフボードがローカル達に好まれました。つづく
1970年代から1980年代にかけてサーフィン雑誌が次々発行されました。サーフィン・ワールド、サーフィン・ライフ、サーフィン・クラッシク。
カリフォルニアよりもハワイやオーストラリアの記事が多く、すごい波で見たこともない技を披露しているサーファーの写真を見て興奮しました。高校生のサーフィン・バイブル本は川井幹雄さんが監修したスポーツノートです。サーフィンの教科書みたいな作りで、技の名前、ゲッティングアウトのやり方、サーフギアのカタログなどが掲載されており、正直それしか情報が無い時代でしたw。サーフィンの他にスケートボードやBMXなどその当時の新しいスポーツ?を取り上げていてその時代に始めた方は皆さん読んでいたと思います。
まだVTRがあまり普及していない時代でよくサーフ・ムービーの上映会も開かれていました。その土地のサーファーが集まり、酒を呑んでちょっとしたパーティーみたいな感じです。
1981~1983頃のサーフボードは、初めはシングルフィンしかありませんでしたが、ツインフィンが出てきて、ツインスタビー、トライフィンと進化していき、リアルタイムでいろいろな板に乗れた時代でもありました。ウエットスーツも黒のスキンからカラージャージが主流になり、今考えると恥ずかしいカラーリング・・・w。今でこそ「80’s BACK!」とか言ってますけど、リアルで経験した人はどう思ってるのかな?w。
ハワイ行ってきた先輩がいて、初めてドルフィン・スルーを教えてもらいました。それまではプッシング・スルーかローリング・スルー、もしくは板を捨てて潜ると3種類しかゲッティングアウトの方法が無かった時代。ドルフィン・スルーのおかげで効率良くアウトに出れるようになりました。コンペも盛んに行われていましたが、自分のスタイルを大切にする事もこの先輩から学びました。ビックウエーバー、小波が得意、コンペが強い、スタイル重視などいろいろなサーファーがいて、個性が強いサーファーが多かったと思います。
石巻初のフリーダムサーフショップや、フラワートップ(名前が素敵!)が無くなり、次に出来たザ・サーフショップが無くなり、石巻にサーフショップが無くなってしまい、WAX1コ買うのに隣の東松島市のウエーブ・ガレージまで行ってましたが、後日そのオーナーが石巻にマハロ・サーフショップをオープン。オーナーがGODDESSサーフボードのライダーだった為、GODDESS色が強いサーフショップでしたが、その当時では珍しかったBALIで買い付けた物や沖縄に行った先輩が買い付けてきた米軍払い下げの中古家具、古着、ファイヤーキングの食器などいろいろなモノを知ることが出来ました。今思うと石巻サーファーは先見の明があったんだな〜と思います。

高校生になり、朝から晩までサーフィンの事しか考えていなかったので、部活は年に数回行けば良い部活を選び、放課後はもちろんサーフィン。休日は朝から暗くなるまで海で過ごし、地元に波が無いと休みの前の日に大人の人に電話をしまくり、どこか波がありそうな所に車で乗せてもらったりしてました。サーフィンをする高校生が徐々に増え20数名くらいになり、チームを作って皆で切磋琢磨してサーフィンをしていました。そのチームから後日、東北初のプロサーファーが誕生!石巻出身を誇りに思います。サーフボードは小遣いが少なかったので新品のサーフボードは中々買えず、いつも先輩のお下がりを安く譲ってもらったり、また新しいボードを乗っている人から貸してもらったりして、いろいろなサーフボードに乗ることができました。ウエットスーツはいろいろな種類を揃える事が出来なかったので、とりあえずスプリングと5mmのフルスーツがあれば何とか1年間サーフィンできました。
サーフィンをしまくった高校3年間、勉強はまったくしませんでしたが、前席の奴が頭が良かったおかげで無事に卒業できましたw。つづく
石巻のサーフィンの歴史は意外と古く、1960年代にエンドレスサマーを上映した年、石巻の大先輩が外国人にサーフボードを輸入してもらったのが始まりです。
東北では2番目だったそうで、山形県湯沢の人が1番早く、その人にサーフボードにWAXを塗る事を教わったと聞きました。
1970年代に入ると石巻にフリーダムサーフショップが出来、石巻オリジナルのフリーダムサーフボードやグラスファイバーのスケートボードも作っていたそうです。その後フラワートップサーフショップが出来てオーナーの自宅脇の倉庫で石巻オリジナルのFOCUSサーフボードを作っていたそうです。
サーフトリップも盛んに行われており、北は青森県、南は福島県までありとあらゆるポイントを開拓していったそうです。
そのおかげでどのサーフポイントに行っても、「石巻から来た」と言うだけでと快く歓迎して頂きました。
昔、その頃撮った8mmを観せてもらった事があり、地元のビッグウエーブ、本州最北端のサーフトリップ、スケートボードやオフロードバイク、現在のおしゃれなサーフ・ムービーと代わらないくらいクオリティの高いサーフ・ムービーでした。
サーファー自らサーフボードを作ったり、革細工のお店、カフェなど好きな仕事をしたり、好きな時に好きなだけサーフィンをして、アートをこよなく愛し、俗世間には染まらないヒッピー文化が根付いていた街だったのかもしれません。

12月に入り、流石に半袖タッパーで海に入るのは身の危険を感じ、海に入るのは諦め、中学校1年生から始めたスケートボードで練習してました。スケートボードを始めるキッカケもやはり映画w。1978年に上映された「ボーイズ・ボーイズ」です。もちろんそれまで実際にスケートボードを見たこともなく、始めは拾ってきた板切れに戸車を4つ付けてガラガラ滑ってました。真っ直ぐしか走らず曲がれませんでしたが・・・w。その後、サーフショップでスケートボードが売っている事を知り見に行きました。ALVAやSIMSの板、クリプト二クスのウィール、高額すぎて手が出ませんでした・・。町のスポーツ店に安いスケートボードが入荷したと聞き、そこで購入。グラスファイバー製で[HOBIE]と書いてありました。今考えるとその時期はHOBIE・USAが倒産していた頃なので、その質流れ品だったのかな〜と思っています。その頃のスケートボードはシールドベアリングではなかったので滑っているとボールベアリングが抜けてよく自転車屋にベアリングを買いに行った記憶があります。

中学3年生、受験生になりましたが、サーフィン熱はさらにエスカレート。
サーフショップ・オーナーがやっている喫茶店に飾ってあった石巻オリジナルのFOCUSサーフボードをオーナーの好意により1万円で譲って頂きました。
今でも忘れられないファースト・ボード。長さ182cm幅53cm厚さ7cmくらい。デザインはジェームス・ジョーンズ風でバナナフィンのグラスオン・シングルフィン、テールが絞ってあるピンテールでした。
身体が小さかった私は片手でボードを持つとき腕が回らず、よく自転車で運んでいる途中に何回も落とした記憶があります。
受験勉強もせず、毎日のように海に通いました。私がサーフィンしていたポイントは通称Gポイントと言って何故か毎日出来るくらいの波はありました。そのGポイントが埋め立てられてから「フラット」と言う言葉を知ったくらい波があったと記憶しています。
冬に入り、どうしても冬にサーフィンがしたかったのでウエットスーツを購入する事にしました。石巻にはウエットスーツの工場もあり、そこでオーダーしました。5mmのスキン・フルスーツ、デザインは自由だったので脇マチと膝をジャージ素材に、サイズ・カラーフルオーダーで¥25,000!まさか10年後にこのウエットスーツ工場に就職するとは思わずに・・・w
寒さを凌ぐための焚き火でウエットスーツの膝下、お尻はカリカリに壊れ、その穴から入ってくる海水が冷たくて、寒いと言うより激痛だったことも覚えています。w
石巻メイドのサーフボードに、石巻メイドのウエットスーツ。ヒッピーでジャンキーな先輩達。ある意味、良い時代にサーフィンを始めたのかもしれません。
高校受験も志望校に無事入学でき、高校生活は夢のサーフィン三昧か!?  つづく
e5starウエットスーツの中村です。

今更ながらBLOGを始めます。

「e5starウエットスーツを作っている人はどんな人?」っと疑問ですよね?
まずは私のプロフから書いてみます。

1966年3月、宮城県石巻市生まれ石巻育ちの50歳です。
現在は隣の宮城県大崎市に住んでおります。

私の生まれ育った宮城県石巻市は東日本大震災で有名になりましたが、岩手県から流れている北上川の河口で太平洋に面した港町です。(一応、宮城県では第二の市)
昔から遠洋漁業の船乗りが多かった為かわかりませんが、外国のモノが各家庭にあったりしました。
私がサーフィンと出会ったのは1979年に上映された「BIG WEDNESDAY」でした。
中学校2年生の時、部活の先輩が「BIG WEDNESDAYって映画観たか?絶対観に行け!」となかば半強制で観に行った記憶があります。
小学校の頃からアメリカのアニメやTVドラマを観て育った世代なので、アメリカ文化に興味を持っていた事もあり、「BIG WEDNESDAY」を観てすぐにサーフィンをやってみたいと思いました。
夏休みのある日、「サーフィンってどうやったら出来るのだろう?」と友達と駄菓子屋で話をしている時に偶然同級生がサーフボードを片手に自転車に乗って駄菓子屋の前を通り過ぎて行きました。その同級生、名前は知っていましたがあまり話した事が無かったのですが、直ぐに追いかけ呼び止めました。「◯◯くん、それサーフボードだよね!サーフィンやるの?」「俺たちもサーフィンやりたいんだけど、一緒に行っていい?」すると◯◯くんは「いいよ。」っと面倒くさそうに言ってくれました。海までは自転車で20分くらいで海についた時、「え〜〜〜、石巻でもサーフィンしてるんだ!」っと思いました。とりあえず◯◯くんのサーフィンをじっと見て、◯◯くんが疲れたらサーフボードを借りる約束をし、やっと自分の番がきてサーフボードに触れました。波は腰〜腹くらいでパドリングはもちろんフラフラ、スープで練習しようと思ってもぜんぜんうまく行かず、結局その日はは1本も立ち上がれず悔しい思いをした記憶があります。でも腹ばいで波に押される感覚がとても楽しくて一気にサーフィンの虜になりました。
夏休み中、部活の練習をサボり、毎日のように◯◯くんと海に通いました。「BIG WEDNESDAY」を薦めてくれた先輩もサーフィンをやっていた事を後から知りました。私の通っていた中学校は田舎ながら全校で1200人くらいいて、その中でサーフィンをしている人が3人、400人いる同級生と3年間一度も話をしない人もいるのに、サーフィンをしている3人に出会うって凄い確率ですよね?笑
始めて1年間はサーフボードなんか買えもしないので漁港で拾った大きめの発泡スチロールをサーフボード風にカットし、今で言うボディボードをして◯◯くんが疲れるのを待ち、◯◯くんが疲れたらサーフィンの繰り返し。11月位に先輩の半袖タッパーを借りて、唇が紫になりながら海に入っていた記憶があります。

つづく